函館空港へは国内線では日本航空(JAL),全日空(ANA)、エア・ドゥ(AIR DO),北海道エアシステム(HAC)が就航しています。残念ながらLCCは未就航です。
夏休み特別寄稿 海峡の修道院【上】
真夏の海峡は淡い青空の下で凪いでいた。対岸には函館山が大きな島のように黒々と横たわっている。
一輛編成の列車は予想外に混んでいた。まだ発車まで20分以上もあるのに、車内の座席は中高年と子供連れの乗客たちでほぼ満席だった。それでも対面四人掛けシートの通路側の1席に座ることができた。やがて海側になるはずの進行左側のボックスだ。国鉄時代から走り続けているこのキハ40という気動車には冷房は装備されていない。いくら北海道でも真夏のこの時期、多くの客が乗車すればクーラーなしでは相当暑苦しい状態になる。どこかの席で小さな子供が泣き叫んだかと思うと、別のボックスでは年配の男が怒声を発している。何やら典型的なローカル列車の趣きを乗せたまま木古内行き普通列車は函館駅を定刻の10時21分に発車した。今年北海道新幹線が開業してこの路線は函館漁いさりび鉄道となった
五稜郭で函館本線から左方へ分岐して夏草の中の単線をゆく。七重浜、東久根別、久根別、清川口と細かく停車しながら少しずつ乗客を降ろしてゆく。
もう海のそばを走っているはずなのだが、なかなか海は見えない。海の予感、というのは不思議な感覚でどこか気持の中が泡立つようなところがある。海の気配を感じながらも、まだ見えてこない海に人は小さな苛立ちを感じる。それは人間など簡単に飲みこんでしまいそうな巨大な自然に対する恐怖感に繋がっているのかも知れない。あのポール・デルヴォーの『海は近い』という少し不気味な絵はその戦慄を暗示しているようにも思えるのだ。
やがて列車は上磯の大きなセメント工場を避けて山側に迂回したあと、海沿いに走る国道と並行するようになってあっさりと海が現れる。期待していた通りの夏の海だ。しかしすぐに切り通しの区間に入ったかと思うと山側にカーブして鉄輪を軋ませながらトンネルに入ってしまう。少し長めのトンネルを抜けたとき、視線をかなりあげると周囲を覆う樹木の上に青空が光っていた。短いトンネルをいくつか過ぎ、やがてまた長いトンネルを抜けて小さな川にかかる鉄橋を渡ると列車は減速して茂辺地駅に到着する。ワンマンカーなので前方のデッキで運転士に乗車券を渡して下車する。一緒に降りたのは十人ほどだろうか。小さな駅舎の中で素早くTシャツに着替え、歩数計を首にぶら下げるといよいよ徒歩巡礼のはじまりだ。胸は高鳴るが、道中心臓に不調を感じたくないので極力冷静になろうと努める。
海峡を望む丘の上に建つ修道院へ歩いて訪れたい。そしてその聖堂の前に跪いて祈ろう。
「おまえはキリスト者か」
「否」
「では何を祈るというのだ」
「わからない」
「何のために歩くのだ」
「それもわからない。ただ歩いて祈りたいだけなのだ。理由などない」
四国巡礼。
サンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼。
メッカ巡礼。
人は歩いて聖地を巡ることに何らかの理由づけをしたいのかも知れない。しかし理由もなく歩きたくて、さらにその目的地が偶々宗教的施設ということがあってもいいだろう。それはその人自由だ。しかし、偶々というのは違っていて宗教的な施設は本来人を引き寄せる磁場のようなものなのかも知れない。それは特定の信仰を超えた普遍的な力である。世界各地の、いわゆる観光名所と言われる場所のかなりの部分を宗教的施設が占めていることもこうした理由あってのことだろう。だから畏敬の念をもち、礼儀正しい態度でさえあれば、異教徒である私が聖堂の前で跪くことに不都合はないだろう。